私はリアルタイムで橋田壽賀子作品を見た世代ではありません。
橋田が脚本を手がけた有名な作品である「おしん」もまだ見ていないし、「渡鬼」でさえよくストーリーを分かっていません。完全に「にわか」です。すみません。
それでも、2019年に連載された日本経済新聞の私の履歴書の第一回の書き出しが衝撃だったことを覚えています。
夫の死の場面から始まる書き出しは、あまりに衝撃で、これまで見てきたどの「私の履歴書」よりも異彩を放つものでした。
橋田の半生は2度自身の脚本によりドラマ化されています。
幼少期からおしん、渡鬼を描くまでになるまでのストーリーも、まさにドラマ仕立て。読みやすいし、何度も読み返したくなるくらい完成されているというか、、、、まさに波瀾万丈そのものです。
私の履歴書に当時掲載された記事は、有償契約していれば今でも日経電子版で見ることが可能です。ぜひご覧いただきたいです。
無料で記事を楽しむこともできます。
音声配信サービス「Voicy」で日本経済新聞社が無料で朗読データを公開しているので、そちらをご参照ください。
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橋田は1925年、ソウルで生まれます。幼少期は家族の都合で、ソウル、東京、堺を転々とします。戸越銀座の伯母に預けられ幼少期を過ごします。
子どもがいなかった戸越の伯母は、私を実の娘のようにかわいがってくれた。両親に捨てられたと思い込んでいた私は、おばちゃんにも捨てられることを幼い心の中で一番恐れていた。出典:日本経済新聞2019年5月2日朝刊
また、橋田がちょうど高等女学校に進学する年のエピソードも記されており、軍国少女だった橋田は日中戦争のさなか南京を占領した際に堺で行われた提灯行列に混じって「バンザーイ、バンザーイ」と闊歩。戦時中といった感じです。この辺の時代感は話だけ聞くとピンとはきませんが、私の履歴書では、その場面が想像できるくらい生き生きと描かれています。
その後、高校卒業直後に結婚させようとする母の意向をよそに橋田は日本女子大への進学します。家族の大反対のなか上京する場面では、このようなエピソードも記されています。
東京へは大阪から鈍行の汽車で向かった。狭い座席で荷物をほどくと番号を振った弁当が5つも出て来た。1番は私の好物のローストビーフ。5番は牛肉のつくだ煮。傷みやすい順に食べるようにとの思いやりに胸が痛んだ。
出典:日本経済新聞2019年5月6日
やがて終戦を迎え、大阪に戻っていた橋田は東京へ戻ります。しかし大学へ行こうにも戦後の混乱のなか食べ物が不足しており、東京では満足に食事もすることができない状況でした。
そこで戸越銀座の伯母が疎開しているという山形県左沢(あてらざわ)に向かいます。そこで出会った材木問屋のおばさんによる衝撃的なエピソードが、「おしん」の脚本へと繋がっていきます。
社会人となった橋田は松竹の脚本から週刊誌の連載まで幅広く仕事を引き受けていきます。ちょうど、テレビ放送が始まった頃の草創期であり、橋田が書いたホームドラマは次々とヒットしていきます。
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橋田壽賀子作品は、私の世代より上の世代が中心であり、渡鬼くらいしか知らないという人も多いかもしれません。
この私の履歴書は、おそらく生前最後に自身の半生を記している記事だと思われます。戦後から平成まで、ほどよく「時代」が感じられ、鋭い洞察力と心に響く筆致で30回分あっという間に読んでしまいました。
社会人となって活躍する姿ももちろん良いですが、幼少期から大学進学くらいまでのエピソードが私は好きです。
以上参考になれば幸いです。