銀行員小椋佳のすごさ。

こんにちは、りゅうです。

今日はプロの作詞作曲家でありながら、二足のわらじで都市銀行の支店長まで務めた、小椋佳についてです。

2016年1月の日経新聞「私の履歴書」に、これまで詳述されてこなかった小椋佳の半生が1ヶ月に渡って綴られています。

私の履歴書は、度々話題になりますが(直近ではニトリの次期会長似鳥昭雄氏の経歴、経営手法が話題になりました)個人的に今回もヒットです。 

小椋は銀行員として、想像を遙かに超えるエリートっぷりです。また同時に作詞家・歌手としての「副業」をこなしていきます。当然、組織の壁にぶち当たります。

それでも実力があるならば、打たれることはない。自分が好きと思えることを、信念を持って愚直に続けていきます。

ぼくは元銀行員なので、担当した部署の激務度合い、銀行組織の中での立ち回る姿はリアルに想像でき、またその行動力、精神の強さは心打たれるものでした。まだ新聞の連載は続いていますが、記事の一部を引用しながら感想などを書き留めておきたいと思います。

(引用中心で記事長いです。ご了承ください)

東大法学部を出て「なんとなく」銀行に就職

ただなんとなく何人かの先輩を訪ね巡り、なんとなくここならいい感じかなと思えた日本勧業銀行(現みずほ銀行)の入社試験を受けたにすぎない。

(出典:2016年1月17日 日本経済新聞朝刊)

1944年に東京で生まれた小椋は、東大卒業後、なんとなく銀行に就職します。

周囲の学生は東大法学部らしくキャリア・法曹の世界へ進んでいきます。文学活動に明け暮れて学業がおろそかだったのかはわかりませんが、学生が民間企業の中で、なんとなく銀行に就職してしまうといった思考は、今も当時と変わっていないように思います。

銀座支店時代に資生堂と懇意にし行内向け論文を書き上げる

私は当時日本勧業銀行の超優良顧客の一つであった資生堂グループの専任担当者に指名された。当時の銀座支店では、店全体の係数をS(資生堂関係)とES(Except SHISEIDO、つまり資生堂関係以外)と二分して管理運営していた。それからの私の生活は日本勧業銀行の一行員というより、あたかも資生堂の一社員として過ごす時間が圧倒的に多くなる。

(中略)

銀行員としての有るべき様は担当者として業務を進める過程で資生堂グループの方々から全て教えていただいた。資生堂に関わる「金」は全て自分が承知し、関わることを望むようになり、銀行は銀行法の枠を超えて証券や信託や保険等総合金融業者を志向すべきだと考えるようになった。銀座支店を離れる際に私が書き残したものは「資生堂論」であった。

(出典:2016年1月19日 日本経済新聞朝刊)

新入行員として銀座支店に配属された小椋は、2年目で営業係を命じられます。担当先であった資生堂の社員のように過ごし、論文まで書き上げます。

銀行での営業係は、いわゆる得意先回りが多く取引先について誰よりも詳しくなければならないポジションにあります。当然お客さんの懐具合をガッチリと掴まなければなりません。2年目行員でありながら大企業の営業担当を任せられること自体も並大抵なことではありませんが、論文まで残していくということは、どういう思考であったのか分かりませんが、普通のサラリーマンでは考えられません。

副業禁止規定を鮮やかにかわす度胸と実力

銀行には競業避止義務がある。他の仕事をしてはいけないという決まりである。シカゴの大学院にいた私は無神経であった。私のLPが世に出たことを知った先輩が心配した。「神田紘爾君が歌のレコードを出したが、どう対処したものか」と人事部へお伺いを立てに行ってくれたのである。幸いなことに時の人事部もおおらかだったようで「どうせたいしたことにはならないだろうから放っておこう」といった対応だったらしい。

(出典:2016年1月20日 日本経済新聞朝刊)

サラリーマンでありながら、小椋は自身のレコードを発売することになります。また、終業後にはラジオ番組のパーソナリティもこなしていました。

多くの会社では「副業禁止規定」がありますが、銀行員あるいは税務署員などは、より厳しく副業が制限されます。公共性が極めて高く、またお金を扱う仕事であるので、お金に対して何かあらぬ疑いがあるようではいけないのです。

ぼくが以前勤めていた銀行も、副業が厳しく制限されていました。転勤になり住まなくなった自宅を賃貸し、賃料収入を得るような場合であっても公に認められることはありませんでしたし、確か副業についての行内稟議は頭取決裁だったように思います。それくらい銀行員にとって副業をするということは大それたことなのです。

(ましていらぬ情報を発信するようなブログで収入など得ていたら大変なことになるでしょうね。辞めたのでどうでもいいですが。)

小椋が勤めていた日本勧銀の人事部はおおらかでした。副業でお金を稼ぐだけならまだあり得ますが、レコードが発売されれば作詞家として「名前」も出すことになります。結果いかんによっては、下手したら銀行の信用を毀損することにもなりえますから、すごいもんです。

しかし案の定、その副業が炎上する自体になります。

週刊誌騒ぎ

記事の見出しは「一銀行員の副業に驚愕した第一勧銀重役会」で、内容も事実ではないショッキングなものと判明した。私は広報室長に呼び出され、人騒がせとなったことについて叱責を受け、迷惑をかけた重役連にわびを入れて回った。

この一件後、人事部長と次のようなやり取りがあった。

「こういうことも起きる。銀行員として全うするならこの際、小椋佳としての仕事はやめにしてはどうかね」

「小椋佳は仕事としてやっているつもりはありません」

「しかし君、周囲はそうは見ない。それも分かるだろう。やめる方が得策と思うよ」

「歌を全面的にやめろとおっしゃるのであれば、銀行を辞めさせていただきます。私にとって歌創りは日記を付けるのと同じです。サラリーマンは日記を付けてはいけないという法はないはずです」

「私としてはそれでOKというわけにはいかない」

「それでは、こうさせてください。今後はラジオ、テレビ、ステージなどに一切出演しません。人前に顔を出すことはありません。その代わり歌創りは続けさせていただく。それでいかがでしょう」

「うむ、まあそういうことにするか」

(出典:2016年1月21日 日本経済新聞朝刊)

副業が週刊誌によって取り上げられて、行内で役員も巻き込んで炎上することになります。この時点で普通なら退職も覚悟しそうなもんですが、その後の人事部長とのやりとりがすごいです。

一切物怖じせず、「日記をつけてはいけない法はない」と突っぱねます。最終的には人事部長が折れて芸能活動を続けていくことになります。

サラリーマンであれば、解雇を何よりも恐れて社内で自由に発言をすることができません。言いたいことなんていえません。だから居酒屋では上司の悪口で、今日も盛り上がります。

一方小椋は、「好きなことを続けて何が悪い」と信念を曲げることはありませんでした。これは、銀行の仕事を完璧にこなし誰にも文句を言わせない、同行の稼ぎ頭であった「自信」と、好きなことを続けていく「信念」を持ち合わせていたからこそできたことです。たぶん、こういう人は居酒屋で仕事の愚痴を吐いて、くだを巻くなんてことはしないでしょう。

営業店でも実力を発揮する

いつの間にか私が開拓した会社への総与信額が、営業担当者の中で最大となっていた。外国為替取引に至っては、本店と大阪支店に次いで新設の赤坂支店の外為取扱量が3位にまで膨らんでいた。今だから言えるが、相当に無茶をやったし、外為管理法違反すれすれの取引もあった。

私は毎年50曲程度の歌創りをしてきたが、妙なことにこの最も忙しく働いた赤坂時代は年間100曲近い作品を書いている。その中に「シクラメンのかほり」があった。

その1975年の年の瀬、「シクラメンのかほり」が日本レコード大賞を受賞しそうだから当日は会場にいてほしいと要請があったが、私はその種の派手派手しい式に出るのは本意ではなかったのでお断りした。すると、せめて電話で受賞の喜びを語ってくれという。結局、私はその話からも逃げて、発表当夜は銀行の上司たちと東京駅八重洲口のマージャン荘に潜んでいた。

(出典:2016年1月22日 日本経済新聞朝刊)

小椋は新設の赤坂支店の営業マンとして数字をメキメキと積み上げていきます。また、代表曲である「シクラメンのかほり」もこの頃生み出されます。

普通なら、忙しいときほど、本業以外はおろそかにしてしまいがちです。でも、忙しいときだからこそ相乗効果により、本人も思いもよらないような成果が上がることがあります。たとえ忙しかったとしても、なんとかして続けていく。そのことの大切さを教えられます。

本部で商品開発企画、さらにはテレビ出演も果たす

セールス用の資料には、パンフレットのようなお座なりなものでなく、当該特定企業向けの独特のものを用意した。メリルリンチの研修で得た技法の一つでもある。幸い行内上層部の賛同も得て、私はこのセールス展開のため、出張費ほぼ無制限で全国行脚をした。成果も相応に上がったと思う。しかしこの動きも技法も他の普通銀行、さらには地方銀行にも知られるところとなり、結局は銀行間の私募債主受託獲得競争の時代を招いてしまった。

第一勧銀証券部でこんな仕事をしていた頃のある時、上層部から「君、NHKに出ないか」という話が降りて来た。NHKホールでコンサートをやり、NHKテレビで放送される、その依頼に応じたらどうかというのである。

私はその4年ほど前、小椋佳としての活動をやめろと迫る銀行に対し、歌創りを続ける代わりにラジオ、テレビ、ステージへの出演は一切やめると言い、銀行としてもそれでいいとなったはずである。

そのはずが、今回は銀行の方からステージ、テレビへの出演のお勧めである。私はというと、それまでのかたくなな出演拒否の姿勢に対して、各方面から「不遜だ」「生意気だ」との声が高まっていることを感じてもいた。

(出典:2016年1月23日 日本経済新聞朝刊)

小椋はメリルリンチ証券へのトレーニーにより、当時は珍しかった「私募債」を銀行が取扱う商品にまとめあげて、売り歩くことになります。今はどの銀行も、資金調達方法として私募債を取り扱うノウハウがありますが、小椋はその先駆けです。

また、上層部から禁止されていたテレビ出演のオファーもされます。この頃の小椋はまだ32歳。32歳でこれほどパワフルな銀行員をぼくは知りません。

布施明に提供した『シクラメンのかほり』が大ブレイク。マスコミが大騒ぎして小椋の存在を隠しきれなくなる。NHKコンサートでお披露目という流れに。『シクラメン- 』が売れて、第一勧銀でも問題になる。

当時の小椋の上司で後の頭取・宮崎邦次は小椋をかばった。
“ 神田君はみんなと一緒になって最後まで残業して一生懸命仕事をしている。なんの問題があるのか? ”
—宮崎邦次

(出典:ウィキペディア 「小椋佳6.備考」より)

その後小椋は営業審査部、国際部などを歴任し、証券部次長に就任することになります。

ノーパンしゃぶしゃぶなど接待漬けの日々も過ごす

後にどちらかというと好ましからぬ仕事としてマスコミに取り上げられることになる、いわゆる「MOF担(対大蔵省折衝担当者)」の役割を一部背負う立場でもあった。

当然のように、当時の大蔵省の銀行局、理財局、証券局、国際金融局などに日参する日々であったし、毎夜とまでは言わないが、始終各局の役人をお座敷で接待するのも仕事のうちであった。この期間、何とか無難に演じ通したとは思うが、思い出して、決して心地よい時期ではない。

(出典:2016年1月28日 日本経済新聞朝刊)

証券部次長だった時期に、ノーパンのオネーチャンを見ながら、しゃぶしゃぶで接待するMOF担の一部を背負う立場になります。昔の大蔵省は、今でいう「金融庁」にあたります。

新商品の開発などの「攻めのポジション」が多かった小椋にとって、どちらかといえば「守りのポジション」を任された小椋は「思い出して心地よい時期ではない」という言葉で当時を振り返ります。

サラリーマンにとって、希望の部署を選べることは珍しいことで望まぬ部署への配属あ必ず起こりうることです。たとえ優秀な行員であったとしても、時にこうした試練を会社は与えます。

浜松支店長時代

浜松支店は規模的には大店であり、静岡県内で母店と言われた支店でもあるが、その開設以来60年、本部から1度も業績表彰を受けたことがない店であった。それだけが要因と言うのは語弊があるが、常に労働問題でもめ事の絶えない店だったそうである。

(中略)

さらに「ハート会」なる顧客100社ほどの組織があるのだが、主だった8社の社長さん方がそろって第一勧銀ファンで、それぞれ支店長のつもりになって、店務運営についていろいろとアドバイスしてくださったことも大きい。私は図に乗って、本部のいぶかりを押し切り、奥様方のハート会を創設したりした。その年度の期末、浜松支店は開店以来初の業績表彰に加え、事務優良表彰を受けた。

(出典:2016年1月26日 日本経済新聞朝刊) 

本部畑であった小椋は、1991年より第一勧銀浜松支店長を務めます。

久々の現場勤務となった小椋は実力を遺憾なく発揮し、浜松支店としては60年ぶりの業績表彰・事務優良表彰を受けることになります。

営業店での実績評価は「業績面」「事務面」での2大評価が主です。銀行員はこの「2つの両輪」をこなしていくことに傾注していくことになりますが、2つの評価を同時に受けるのは、これがなかなか難しいことです。

業績向上は、新規のお客さんの獲得をしながら、既存の取引先も含めて「銀行のファンを増やしていく仕事」に他なりません。

もし、みなさんが社長だったとして、「取引銀行の支店長が、テレビに出ていて、歌も歌える、ソングライター」だったらどうですか?絶対面白いと思いますよね?ぼくだったら、一度お会いしてできれば一緒に働きたいと思います。

銀行員でソングライターという肩書きはあり得ないですからね。まして行内実力もあるエリートならば、取引しない会社なんてないと思います。

親睦団体はさながら小椋のファンクラブといった様相です。奥様会を新たに立ち上げたことも、ファンビジネスをよく理解しており、実力がある小椋だからこそできたことです。

小椋の人柄は近しい人でなければわかりませんが、業績・事務両面で成果を挙げるには、その人となりも重要です。パワハラ支店長が実績を残すこともありますが、「この人ならついていく」といった気概を部下に持たすことができる支店長こそが、優秀な支店長に思います。

小椋さんは第一勧銀の頭取候補だったんだ。頭取候補が、支店長経験がないというのは問題だということになって浜松支店長をやることになったんだけど、ウチとしては東京にいてもらわないと困るんだ。アルバム『いたずらに』はそんな最中の制作で、第二回目のコンサートをやってケジメをつけようということになって普門館コンサートが企画された。だから最後の曲が『さよなら』なんだよね。 ”
—岩瀬貞行(キティレコード・プロデューサー)

(出典:ウィキペディア 「小椋佳6.備考」より)

40代半ばで「見るべきほどのことは見つ」の境地

40代の半ばに至った頃、そろそろ銀行を辞めるべき時期が来ていると感じ始めていた。平家物語の終盤に出てくる「見るべきほどのことは見つ」を実感したからである。

ところが、観察者であったはずの私にも「仮面の肉面化」現象は着実に起きていた。巧みに演じたと言うのがふさわしくないほどに、銀行員として一所懸命に生きてきてしまったと思われた。一所懸命の内実とは、組織の価値構造に身を染め、組織に高い評価を受ける振る舞いを心掛けていたということである。 

(出典:2016年1月27日 日本経済新聞朝刊)

組織に身を置くことで自分が見失われそうな危機感を覚えるのは 、たとえ特異なサラリーマンであった小椋も例外ではなかったようです。

小椋は浜松支店長を経て、財務サービス部長になり、そのタイミングで銀行を退職することになります。その後、50歳にして大学に入り直し哲学を学ぼうとするのですが、その続きは、是非日経新聞を購読して確認いただければと思います。

まとめ:超エリートで真似できないけど学ぶことが多い

新卒で入社する会社は、学生で社会のこともよく分からないままなので、あみだくじで入社するようなものです。

あみだくじの結果、良くも悪くも銀行に入社した人にとっては、もしかしたらビンボーくじだったかもしれません。大抵の銀行員は小椋のようなエリートコースを歩むことはありません。副業と言い張ることができるような趣味特技を持つこともできず、人事部に目をつけられないように、粛々と日々の仕事をこなしていく毎日です。

銀行内で大なたを振ってサラリーマン時代を過ごした壮絶な小椋の半生は、容易に真似できるものではありません。けれど、サラリーマンでありながら、誰が何と言おうとソングライターを続けていくという覚悟をもつ強さや、そのために周囲に文句を言わせないくらい、本業において実力をつけること等のエピソードは、結論としては王道かもしれませんが、多くのサラリーマンにとって心に残るものだと思っています。

現代ではこのような銀行員は当面現れることはないと思います。コンプライアンスが一層強化されてきていることや、何か事件があればたちまち炎上しやすくなったこともあり、企業は従業員の火元の規制強化に躍起だからです。小椋のエピソードはドラマのような話なのです。

日経新聞の「私の履歴書」欄自体は、銀行員時代必ず目を通していました。企業経営者はよく見ていて「今日の私の履歴書面白かったねえ」なんて話をされるんです。

来年度から銀行に入社される新入行員はもとより、色んな人に知って欲しい話でした。

 

決定盤 小椋佳 ベストコレクション CD2枚組 WCD-662

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